「SAPIO」5月号の特集記事を見て
びっくり仰天。
「禁断の日本再生論」と称して、
知識人(?)の“テレビや新聞では
大っぴらにできない”言説を載せている。
櫻井よしこ氏は相変わらず安倍擁護一辺倒、
その他諸々、周辺諸国への強硬論が続く。
でも何より驚いたのは、トップを飾る
百田尚樹氏の記事。
「中国を偉大な国と勘違いさせる
漢文授業を廃止せよ」
タイトルからして意味がわからない。
私も高校時代に漢文を習ったが、
それゆえに「中国が偉大だ」などと
思ったことはない。
記事そのものは、中国文化は日本人に合わないとか、
尖閣や南シナ海における中国の傍若無人なふるまいとか、
中国のすさまじい軍拡とか、
『WiLL』や『Hanada』が散々書いて
きたであろうことで、とくに目新しくはない。
が、なぜかそれに対し、
「中国に対する漠然とした憧れを持つことは
やめるべきだし、そんな勘違いを育む
漢文の授業も廃止したらいいのです」
と述べている。
単なるつぶやきレベルの暴論を載せただけではないか。
そもそも漢文を習ったら中国への憧れを持つ、
という前提があまりにも乱暴なのだが、
もう一つ重要なのは、この人の排他的なモノの見方、考え方だろう。
「中国が気に入らないから漢文をやめてしまえ!」というのは、
「鬼畜米英だから英語は使用禁止!」といっていた
かつての軍部(や当時の世相)と一体何が違うのか。
アメリカでは反対に、日本語教育にものすごく力を入れていた。
言葉を通して日本人の風習や精神性、文化を理解し、
ゆえに「情報戦」を有利にし得たのだ。
ちなみに明治期あたりの日本の軍人は、エリートほど
漢文に習熟していて、漢詩を作ったりしていた。
有名なところでは乃木希典だろうか。
つまり漢文は立派な教養だったのだ。
いまは「エリート=教養がある=漢詩が作れる」という構図は
ほとんど見られないけれど、
古典や語学を習うとは、その国や時代、人々の考え方を
理解するということだ。
好むと好まざるとにかかわらず、
中国は隣国であることに変わりはない。
中国の歴史や風習、精神性、文化を、漢詩を通して
理解することがあっていいと私は思う。
理解することと憧れを持つことは
同義ではないので、念のため。
一方、この特集で説得力があるなあと感じたのは、
ケント・ギルバート氏の
「今の日本に『移民』は無理」という記事。
「安直な外国人労働者の受け入れは
日本社会を大混乱に陥れかねない」として、
移民を受け入れた場合に起こり得るだろう混乱を
具体的に並べている。
前衆議院議員の村上政俊氏は、
「女性皇族と海外王室の『縁談』を考えてみた」
という記事を書いているけど……
いまどき外国王室との政略結婚?
居酒屋談義か脳内妄想の類いではなかろうか。